芝浦三・四丁目町会の沿革

当町会は、現在の行政の町名「芝浦三・四丁目」と住居表示された 地区を範囲とする、おおよそ20万坪の面積を有する地域で、JR田町駅 東口周辺から東南部と、新芝運河、芝浦運河で囲まれた3つの埋め立 てた島地から成り、これらを鹿島橋、霞橋、芝潟橋、新芝橋、渚橋、 汐彩橋、藻塩橋、百代橋、八千代橋、夕凪橋、港栄橋、芝浦橋、高浜 橋(これに跨線橋の札の辻橋を加える)の14橋によって町内外を結ん でいる「橋と運河と水辺環境に恵まれた町」である。

だが一方では、一度災害が起き、これらの橋が倒壊すれば、住民は 避難路を絶たれ、孤立化の憂き目にあいやすい地域でもあります。
明治期以降、埋め立てにより、町域が広くなってきた関東大震災 の直後、当町の地域の住民に対し、救援物資受領のため、町内の15世 帯によって「芝浦三丁目自治会」が結成されたのが、町会の原点です。
現在では、発足当時の寂しい倉庫街から、オフィス、大学、タワー マンション等の大規模開発により、居住世帯8,060人、人口17,389人、(平 成28年6月)まで発展を遂げました。
この地域の歴史は古く、大田道灌が江戸城を築いたころ、『廻国雑記』 のなかに「芝の浦といえる所に至れば」とあり、又「やかぬより もし ほの煙 名にぞ立つ 船にこりつむ 芝の浦人」と詠われている。ここで 海藻を集めては塩を製したりして、出来上がった塩を、船に梱り積む 芝の浦の人々が暮らしていた海辺の遠浅い海面(江戸湾)であったよ うです。以来明治まで千鳥が啼き、声を楽しみに芝浦へ、又夏には海 水浴で賑わった風光明媚なところで、芝浦の海水浴場は、海浜にして 眺望絶景で古来観月の景勝地で、そこは潮見坂(伊皿子)より芝の浦 の海が一望出来たと云われている。それでも明治5年、防波堤の上を日 本最初の鉄道(後年の東海道線)が敷設され、明治13年秋より埋立て が始まり、芝の浦は地形環境が変革して土地造成がされ芝浦と云う町 が誕生した。
当時、田町駅東口付近の突築地であったところより着手し、大正3年 5月に完成した土地を新しい芝で新芝町と名づけられた。その後新芝運 河越えを埋め立てたところと併せて芝浦三丁目となった。
大正3年5月より芝田町五丁目から九丁目先が埋め立てられ、同9年に 出来上がったところを月見の名所で知られていたので、月見町一丁目と なった。ここも運河先を埋め立てて、月見町二丁目。更にその先が埋め 立てられ、月見三丁目が造られた。昭和11年1月1日町名改正があり、芝浦三丁目は新芝運河で分別されて、西芝浦一丁目、西芝浦三丁目と なる。月見町一丁目は西芝浦二丁目、月見町二丁目は西芝浦四丁目と なった。月見三丁目は芝浦三丁目に改名され、市電局車両工場の施設 になった。これにより町の全域が完成し、再度、戦後に住居表示変更 がなされ、現在に至る。以下、各町内地区の詳細を記載する。

●西芝浦一丁目(昭和39年7月1日住居表示変更・芝浦三丁目1〜5番地)
田町駅前道路は左右に東京高等工芸学校(現在の千葉大工学部。後 に東工大へ移管、現・東京工業大学附属科学技術高校)、東京市電気局 芝浦倉庫のほか、逓信省経理局芝浦倉庫、同電気試験所芝浦分室、東 京市土木局試験所、同歴乳製造所などの倉庫街であった。道路はポプ ラ並木だった。又、工芸学校内で日本の初放送の電波が発信(大正14 年3月22日)された。戦後その筋の要請で米軍芝浦補給地労務者のた めの飲食店など数店が創設された。その後、都電廃止に伴い同倉庫跡 地に移設して、20店舗が定着し今日に至っている。その他、倉庫が変 わり、港区芝浦港南地区総合支所・港区スポーツセンター(平成26年 芝浦一丁目に移転)、芝浦小学校・芝浦幼稚園(平成23年芝浦四丁目 に移転)、港区スポーツセンター・東京掖済会病院(平成27年閉院)、 都営アパートなどの施設になった。平成8年には町内で初のオフィス・商 業施設・マンションの複合型再開発である「グランパーク」が完成、日 本を代表する広告会社「博報堂」が神田より転入してきた(後に赤坂 に移転)。当初は19人の人口であったが、現在は、芝浦一丁目に跨って、 田町駅東口駅前再開発計画が進行しており、三丁目部分は「TGMM(※ T東京GガスM三井M三菱)計画」として、オフィス2棟と商業・ホテル 等の複合施設を建設中である。また、既存の駅前商店主も連動する形 で再開発組合を発足させて、商業・住居の複合施設を建設する計画である。

●西芝浦三丁目(昭和39年7月1日住居表示変更・芝浦三丁目6〜20番地) 田町駅徒歩 5 分、新芝橋を渡ると東京高等工商学校(現・芝浦工業大 学)があった。更に行くと海岸通り(現 ・ 旧海岸通り)との交差点となる。
この付近はこの街の中心部で新興映画の封切館「芝浦キネマ」があり、 映画館側に祭られていたお稲荷様があって毎月三の日を因んで縁日が 開かれ夜遅くまで賑わった。ミルクホール、自転車店、大衆食堂、衣 料店、酒屋、そば屋、日用品店などが並んだ商店があり、その横道に は麻布十番温泉・越の湯(閉店)と泉源を同じくする、都心部では貴重 な黒湯鉱泉の芝浦浴場と、その周囲には酒場、理容店、しるこや、そ ばやなどがあった。現在も金融機関、大学、商店が集中して、街の中 心地であったが、平成21年芝浦工業大学敷地を再開発し、オフィス・大 学・ホテルからなる芝浦ルネサイト地区に生まれ変わった。「芝浦キネマ」の向側は山田鉄工所、三正製作所、川口印刷・凸版印刷などの生産工場が並び、運河際は芝浦ボートハウスのほか、鉄鋼、石炭など荷揚 場に多く利用されていた。

●西芝浦二丁目(昭和39年7月1日住居表示変更・芝浦四丁目1〜4番地)
月見町一丁目から町名改正され横河橋梁製作所(現・横河ブリッジ HD)、東神倉庫、山ノ坊無煙炭鉱山、清田石炭、三菱系倉庫などの他、 国鉄東京機関区管理がほとんどで住民は少なかった。戦後、横河橋梁 製作所(芝浦工場)の閉鎖後、大沢商会、きよたビルの他は田町住宅、 都営住宅、三田ナショナルコート、東京ベイビュウ、東京ベイサイドな どの集合住宅に変貌した。現在、札の辻橋横の大沢商会ビルは、住友 不動産三田ツインビル東館(オフィス・ホテルヴィラフォンテーヌ田町) となっている。また、隣の警視庁田町住宅の敷地の一部に、平成19年 より三田警察署が移転している。

●西芝浦四丁目(昭和39年7月1日住居表示変更・芝浦四丁目5〜20番地)
ここは工場街で塩水港製糖、沖電気工業、東京鉄骨橋梁製作所ほか、 大小の生産工場で構成されていた。また、昭和41年より、ジャパンタイ ムズが移転、平成8年からは多言語放送局であるインター FMが同地で 開局(その後テレビ東京に売却、天王洲に移転)し、芝浦から世界へ 文化を発信している。その他には、自動車と自動車運転手の旅館として、 東京自動車サービスステーションホテルや、東洋一の芝浦アイス・スケー
ト場(現・住友芝浦ビル)等があり、アイスホッケーの早慶戦などが行 われた。昭和2年秋頃から高浜橋際に二階建ての小屋を造り、朝鮮半 島の人々が雑居しはじめ116世帯、499人になった。戦後は再度の火災 もあってプレハブ住宅が出来て日本の人々も一緒に住むようになった。 平成に入り、この地区は、大型ビルや再開発が著しく、昭和63年トリニ ティー芝浦とMS芝浦ビル(芝浦港南区民センター)が完成。平成に入り、 芝浦スクエアービル・ハイツが竣工するなど、数多くの大型ビルが建築 され、町の風景が新旧交代した。特異な例としては、ジャパンタイムズ 社は、平成に入り、非常に特色ある景観の新社屋を建築したが、行政 や町の側も、脇にかかる百代橋を建て替えた際に、景観をそろえる事 で応えた。中でも平成18年暮れ、沖電気芝浦工場の象徴であるD館が 解体され、翌年に47階建てのキャピタルマークタワーが竣工したのは象 徴的な出来事であった。また、ヤマト運輸跡地に、平成23年度より芝 浦小学校・幼稚園が移転している。

●芝浦三丁目(昭和11年1月1日より昭和39年7月1日住居表示変更まで の三丁目)
大正4年8月から同9年10月迄に埋め立てられ月見町三丁目と命名され たが、昭和11年に芝浦三丁目に改名の後、39年に芝浦四丁目20番地に 再度変更された。ここは東京市電気局車両工場として利用され、定住 人口は一世帯であった。都電廃止後、引込線も埋め潰され都自動車(バス)修理工場、乗合自動車特殊試験場になっていたが、現在は富士急 行東京営業所バス駐車場(現フジエクスプレス)と東京都下水局、都 営アパート、芝浦ポンプ所のほかは広大な空地となっていた。この都電 車両工場(都バス修理工場)跡地が、平成19年、タワーマンション4棟 と商業・生活施設からなる「芝浦アイランド」として整備された。
以上、各町内地区の詳細となるが、以下、歴代町会長の紹介と、町 会と町の歴史について記載する。 『芝浦三丁目自治会』が結成された当初、初代会長に山口政吉氏が就 任し発足した。当時15世帯であったが、震災時、液状土地もあったり して道路建設に尽力された。
二代目会長、山田三二郎氏、会長代理、石阪光三氏のときに、満州 事変が勃発し防護団が組織された。
三代目会長、大橋友二郎氏の頃、戦局が支那事変、太平洋戦争と拡 大していった。軍需景気となって存続工場の拡充に加えて、続々と新 しい事務所が勃興し、物流と生産の町として発展していった。田町駅 を乗降する労働者も急増して、この需要に伴って大衆食堂なども充実 してきた。町会でも防火、防犯、衛生、兵事の部を設ける組織を図り、 警防団・在郷軍人団も結成された。中学生・小学生の少年部も創設され、 部長は理容店の柴田秀男君が就任。又、青年部も警防団、御田八幡神 社祭礼などで活躍した。
昭和17年、大本営の戦果に慢心だった頃、町会の東南に米爆撃機 B25の襲来には町内の人々も驚かされた。
四代目会長佐藤才一氏になると戦局も峻烈になって、戦時体制とな り、統制経済が強化された。隣組組織も生まれ、防火訓練、配給制度 も厳しくなり、一本の大根を切り分けることになった。外食券で食事し、 自由配給分に食堂、食パン店に人々の行列ができた。昭和18年10月21日、 神宮外苑で学徒出陣の壮行会が挙行される頃となると、一億総動員の 決戦に町内は団結を期した。
五代目の会長須藤良一氏のとき、昭和20年5月25日には、東京大空 襲で町内の大部分は焦土と化した。沖電気工業と東京高等工科学校の 建物の外壁のみが残っただけの悲惨な光景となった。町内残留住民は 各自の防空壕で命を取り留めた。
米空母ミズリー艦上で終戦の調印がされるや、芝浦海岸地区は駐留 軍芝浦補給基地となり、暑い熱帯夜でも騒音と塵埃を巻き上げ、数十 台の軍用車が通過した。物資の横流し防止策として、潮路橋、港栄橋 にMP(米軍憲兵)の検問所とゲートで隔離され、さらに東京港芝口と 札の辻坂下芝浦口に再検問所があり通行の際は身体検査をされた。又、しばしばMPの巡廻査察があり、夜間起こされ、畳上に土足靴で上がり、 時には金品を強奪されたりする不安な日々だった。街には米軍人が往

来し、これにまつわる女性も多く騒然として、恥辱を我慢する日々でも あった。昭和22年政令により町会、隣組が解散されたが、町会有志の 方々で三寸角に電球をつけた街路灯などを新設して、真っ暗な街に灯 りをつけた。また三起木材(相原三郎氏)の樽神輿などで気勢をあげ たりもしたが、翌年有志による奉賀帳方式で寄付金を募り、大人神輿・ 子供神輿を造り、町内宮渡しを行い、平和と復興の兆しを象徴した。 当初は隔年挙行の習性だったが衰微挫折した。この頃あっちこっちと 穴落ちした新芝橋の架け替え、田町駅東口の新改設(三井建設施工) で町会有志が落成祝賀会を催すなど街の復興にも着手した。昭和28年 自治会として『西芝浦町会』が再建された。
六代目会長に平野高次郎氏が就任し、御田八幡神社の神殿復興にも 多大な功績を残した。以来神社側から芝浦への認識を高めた。
以後、七代目会長石阪光三氏、八代目会長肥後章二氏、九代目会長 猪狩重清氏が歴任。戦後、当初の太陽サイーダーや住宅屋根用の波板 鉄板といった再生生活必需品を生産していた街は、昭和25年6月25日の 朝鮮動乱で特需景気が起こり、繊維、鉄鋼、造船と本格的な生産工場 に変革し、岩戸景気がおとずれ電化製品・自動車・複写機などの企業が 多くなってきた。町会の皆さんはそれぞれの店舗や、自社の拡充に懸 命で、諸官庁関連業務と町会内務は主として歴代町会長と事務員笹美 恵子さんによって運営された。
昭和39年7月1日、住居表示変更により、新しく区分された丁目に従っ て『芝浦三・四丁目町会』と改称された。
十代目会長坂野哲二郎氏の熱意により、丸太山小屋の町会事務所を 解体し、昭和42年結成された芝浦商店会の協賛のほか、町会会員多数 の協力を得て、昭和46年6月16日二階建て木造モルタルの町会事務所
(現・芝浦三・四丁目会館)を建設して町会の基盤を確立した。この頃東 京オリンピック、万国博覧会などが相次いで開催され、お祭り気風が 盛り上り、神輿の宮渡しが復活した。
昭和47年、十一代目会長に桝谷一郎氏が就任。戦後再祀されたお稲 荷様が東京倉庫脇に合祀された。
昭和48年、十二代目会長は原福二氏が就任。公害問題や、事業所の 狭小などで横河橋梁製作所、東京鉄骨橋梁製作所、酒井重工業などの 現業所は郊外に移転していった。昭和26年以降港南先が埋め立てられ、 品川埠頭、大井埠頭と建設され、コンテナによるトラック輸送と変貌す るにつれて芝浦岸壁での積み卸しは衰微し、だるま船による鋼材、石 炭の荷揚げなどがなくなった。エネルギーも石炭から石油に変わり、倉 庫、工場、資材置場などに広大な空地が次々とできた。その跡地は集 合住宅のマンション、またはビジネスビルに再開発され居住人口、昼間 人口とも急増を続けた。町会も総務部、広報部、厚生部、企画部、衛生部、交通部、器材管理部、防犯部、防火部、文化部、祭典部と再編 成し、人材を登用し、理事・役員を30名余りに増員した。
近郊の神社やお寺への新年初参りを企画して、住民のコミュニケー ションを図り、交通安全運動、防犯・防火運動、御田八幡神社町内祭礼 イベントなど、年間行事が各部の活躍で確立した。更に青年部、母の 会(婦人部)、OB会(老人会)、民謡会などが新設されて、ふれあい豊 かな住みよい町となった。
おおよそ10 ヵ年、原福二町会長の時期は、港区区役所はじめ行政官 庁より『芝浦港南整備構想』なるものが発表され、孤島と呼ばれた芝 浦に光明がさした。そして納涼盆踊り大会の踊り舞台も辻田一郎氏の 寄贈による鉄鋼組立てのものとなった。
昭和57年十三代目会長木村勝三氏になると、芝浦の開発も本格化し、 都営住宅、高層マンション、近代設備のコンピュータービルが出現して きた。町会行事もイキイキし、充実していった。また木村町会長は御田 八幡神社責任役員として同神社の経済的な基礎固めをするなどの貢献 をした。更に明るい選挙推進員も兼ね、行政と地域のパイプ役を果し たほか、地元のシンボルとして町会旗を寄贈した。昭和58年芝浦商店 会(会長下山正)の協賛で第一回「芝浦まつり」を御田八幡神社祭礼 と併用行事として施行、大祭行事を盛大にし、氏子内イベントでも最も 賑やかなものとして注目された。
昭和60年十四代目会長高橋定次氏は御田八幡神社責任役員を引継 ぎ、その責を果すと共に、青色申告宣言の街協議会を結成し、住民・納 税者の納税モラルを高め、そのシンボルの宣言塔を駅前に建立した。 副会長・各部長をよりよく統括し、所轄官庁と綿密に連携のもと、町会 行事を充実していった。特に税を知る週間には力を入れ、この時期に 税務署講堂で講習会を実施した。また防火、防災、防犯と町の治安に 尽力された。更に昭和61年4月18日新芝橋架け替え落成、渡り初め式も 盛大に行ったが、惜しくも昭和63年病に倒れ現職で逝去された。
昭和63年6月十五代目会長に牧野周司氏が就任した。経済環境も最 高潮で芝浦進出に店舗・企業も目覚しい時代となった。町会行事も歴代 町会長の蓄積すべてが実り、著しい発展を遂げた。また50年代になって、 急増した集合住宅の人々と協調して行事を推進した。
昭和63年7月芝浦港南区民センター落成、続いて平成元年7月百代橋 も落成し、渡り初め式を施行するなど、街の施設も整いはじめた。平 成4年3月新芝橋通り、続いて同栄信用金庫(現・さわやか信用金庫) 芝浦支店前、平成6年3月〜平成7年3月高浜橋から潮路橋までがカラー 舗道された。
平成5年芝浦と台場の臨海副都心部を結ぶレインボーブリッジが開通 し、その開通記念神輿パレードに参加し先導をつとめた。また、御田八幡神社祭礼も芝浦地域イベントの「芝浦まつり」と併催することで、来 場者も数千人に及ぶ町会行事として定着した。
田町駅東口前広場整備、田町駅東西自由通路、区道310号線芝浦西 運河橋新設計画の推進、その他運河護岸工事も着々と進行し、一部は 遊歩道として利用されるようになった。
平成8年、町内初の本格シティーホテルである、ニューサテライトホ テル芝浦(現・ホテルJALシティ田町・東京)やグランパーク等が開業し、 昼間夜間とも人口が増加した。
平成10年6月、十六代目会長に坂野喜雄氏が就任。日本経済はバブ ルがはじけ、長期にわたる不況が続き金融不安と企業の倒産など社会 環境は最悪の時代であった。
各企業の進出で、オフィスビル・マンション建設と開発が進んで企 業の統合・リストラなどの影響で次第に街全体の活気も弱まっていっ た。特に三菱銀行(現三菱東京UFJ)、第一勧業銀行(現みずほ)、富 士銀行(現みずほ)、三和銀行(現三菱東京UFJ)、などの大手金融機 関が相次いで撤退、その跡地に大手コンビニや、クリニック、飲食チェー ン店などが進出し街は大きく変貌した。
町会運営については、以前から懸案事項であった、近隣町会連絡協 議会(芝浦1丁目町会、芝浦2丁目町会、芝浦3・4丁目町会、海岸2・3 丁目町会)が創立され、後に芝浦商店会も参加した。この協議会の立 ち上げにあたっては、永年、話が持ちあがっては消え、仲々実現にい たらなかったが、坂野町会長が尽力し、協議会設立に大きく寄与した。 又、以前から工事中であった田町駅東西自由通路が完成し、渡り初め 式には町会を代表して出席した。
平成15年6月、十七代目会長に岩藤文彦氏が就任、六十才代の会長 誕生で一挙に若返った。
低迷が続いていた日本経済も底をつき、大手企業の一部では回復基 調もあらわれ、デフレ不況からの脱出にようやく、ほのかな光がみえて きた時期である。
永年工事中であった田町駅前広場整備も完成し、平成16年3月24日、 港区、近隣町会、芝浦商店会の共催で、港区長・港区議会議長・港区 議ほか、関係団体長・近隣町会長出席のもと盛大な記念式典が行われ た。同時に以前から駅前に建立されていた「青色申告宣言の街」「期限 内納税宣言の街」宣言塔を「青色自主・自書申告宣言の街」(代表・ 大野家俊)の宣言塔として再々建立し、芝税務署・署長他幹部の方々 の出席を得て除幕式を行った。
同時に「第1回芝浦運河まつり」も開催され街をあげての催しとなり、 マスコミも「芝浦運河」を大きく取りあげ話題をよんだ。
ほぼ同時期に、難工事であった「札の辻橋」の架け替えも完了し、渡り初め式が挙行された。また、長年の懸案事項であった、芝浦アイランド再開発計画もスタートし、田町駅前を結ぶ「渚橋」、芝浦アイラ ンドと海岸地区を結ぶ「汐彩橋」が開通し、レインボーブリッジまでの 道が一直線につながった。
この年より、廃止された田町駅東口→六本木→四谷→新宿を結んで いた都バスの替わりに、港区とフジエクスプレスが運行するコミュニ ティーバス「ちぃばす」が、田町駅前から六本木ヒルズまで開業した(田 町ルート)。平成20年には、期間限定であるが路線が増え、町内では、 田町駅前から品川行(芝浦港南ルート)と、同じく新橋行(芝ルート) が仲間入りした。
新しい試みとして、平成16年6月「第1回近隣企業及びマンション自 治会と町会役員との懇談会」を田町ハイレーンに於いて開催した。町 会長、町会役員は行政協力で街づくりに貢献し、港区功労者賞、警視 庁から交通安全感謝状、防犯功労者賞、芝消防署からは地域防火功労 者感謝状など多くを受賞した。
平成19年より、「芝浦アイランド」計画による、都電工場跡の島のほ ぼ全域を一体的に再開発するタワーマンション4棟と、商業・生活施設 等が順次オープンした。中心のプラタナス公園の横には、芝浦アイラン ドこども園・児童高齢者交流プラザ等が設けられ、地域コミュニティー にとって意欲的な試みが続けられている。また、隣接する桟橋から、台 場までの水上バス「アーバンランチ号」が就航。現在は台場乗換で、 豊洲まで行けるようになっている。 また、これに合わせて、田町駅から渚橋手前交差点までの区道(現な ぎさ通りの一部)の歩道部分の拡張工事と、桜並木による緑化を行った。
また、三田警察署が、三田側の札の辻横から、旧大沢商会(現住友 不動産三田ツインビル東館)脇に移転。同時期に、田町駅東交番も駅 前交差点脇から、田町駅前に移転した。
平成20年、住民の増加に伴い、芝浦小学校の皆さんの意見をもとに して、駅前の区道に愛称が付けられた。
先に、駅前より、芝浦アイランドを抜けた通りを「なぎさ通り」とし て命名していたが、新たに新芝橋を渡る手前両脇の、三田警察署交差 点〜田町駅前交差点〜鹿島橋〜ポートボールまでの区道を「芝浦運河 通り」に、また、新芝橋を渡り、芝浦工大前交差点西側の道を「もも よ通り」、東側の道を「かすみ通り」に、さらに先の旧海岸通りより一 本手前の交差点より西側の道を「しおかぜ通り」、東側の道を「さざなみ通り」と命名した。
翌年、芝浦アイランド計画に呼応する形で、渚橋東側の駅よりのた もとに、芝浦商店会が管理する桟橋が完成。一方、新芝橋たもとの運 河沿い遊歩道には、日本初の移動型コミュニティーカフェである「芝浦

キャナルカフェ」がオープン。桟橋のオープンと併せて、港区長以下、 区議、近隣町会関係者を招いて記念式典を挙行した。
そして、平成23年3月11日、東日本大震災の日を迎える。
都営地下鉄はいち早く復旧し暫定運転を開始したが、JRは丸一日運 休。三田側の国道一号線は、深夜まで未曾有の大渋滞で道路が機能せ ず、帰宅困難者が都内に溢れた。東京でも、歴史が浅い埋め立て地で 液状化現象が起こるなどの被害があったが、幸いなことに、町内におい ては大きな被害は報告されていない。
それよりも、直後の福島第一原発事故による放射能の風評被害と、 節電等による経済活動の縮小や、街灯を間引くなどの、沈滞ムードが 街に暗い影を落としていった。
東日本大震災では、津波で多くの人が犠牲になった。東京湾の横で 運河に囲まれた我が町会も、決してひとごとではない。“運河のある街 芝浦”をモットーとして街おこしをしてきたが、震災を期に、新たな課 題が山積するなかでの街づくり、地域のありかたがあらためて問われて いる。こうしている間に、熊本で大震災が発生し、あたらめて「火山の 国、日本」に住んでいる事を実感させられるが、悪い話ばかりでもない。
2016年の開催は逃したが、ついに、2020年に東京オリンピック開 催が決定し、町も少しづつではあるが、未来に向けて動き出している。 田町駅前再開発も、本丸である駅前部分の工事に着手、2020年を前に して完成する予定である。また、東海道線と、東北・高崎・常磐各線 を直通させる「上野東京ライン」が開業し、山手線新駅も2020年まで に暫定開業させる予定である。これには間に合わないものの、オリンピッ クを契機に外国人観光客が増えつつある中、JR東日本は「羽田空港ア クセス線」を新たに整備すると発表。将来は田町駅周辺から羽田空港 まで、路線が結ばれることになる。
昔はダルマ船が行きかった運河も、現在は「水上交通」が行き来す るようになってきた。芝浦アイランドからは、水上バスが発着するが、 キャナルカフェ前の防災桟橋からは、東京初の「水上タクシー」が発 着する社会実験が始まった。東京都も「舟運」を推進して、水辺の活 性化を進めている。これからの芝浦の将来はどのような姿に変っていく のか、興味は尽きない。

平成28年(2016年)
原筆 下山 正
(平成16年5月)訂正・追筆 大野家俊
(平成23年6月)訂正・追筆 大野 創
(平成28年8月)訂正・追筆 大野 創