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当町会は、南北に走るJR山手線田町駅南東部におおよそ20万坪の面積がある地域で、新芝運河、芝浦運河に囲まれた島地を、鹿島橋、霞橋、芝潟橋、港栄橋、夕凪橋、高浜橋、芝浦橋、八千代橋、百々代橋、藻塩橋、新芝橋で結ばれている、水辺環境に恵まれた埋立地である。しかし、万一災害時にこれらの橋梁が倒壊、没落すれば、避難路を絶たれ、孤立化するという地域でもある。行政区分は、芝浦三丁目、芝浦四丁目と住所表示されている。居住世帯数3,068。人口5,826人(平成16年4月)。企業事業所513社、同従業者28,131人(平成13年)となっている。

この芝浦は、道灌が江戸城を築いた頃、『廻国雑記』の中に「芝の浦といえる所に至れば」とあり、また「やかぬより もしほの煙 名にぞ立つ 船にこりつむ 芝の浦人」と詠われている。ここで海藻を集めては塩を製したりして、出来上がった塩を、船に梱り積む芝の浦の人々が暮らしていた海辺の遠浅い海面(江戸湾)であったようだ。以来、明治まで千鳥が啼き、声を楽しみに芝浦へ、また夏には海水浴で賑わった風光明媚なところで、芝浦の海水浴場は海浜にして眺望絶景で古来観月の勝地で、そこは潮見坂(伊皿子)より芝の浦の海が一望できたと云われている。それでも明治5年、防波堤の上を日本最初の鉄道(後年の山手線)が敷設され、明治13年秋より埋め立てが始まり、芝の浦は地形環境が変革して土地造成がされ、芝浦という町が誕生した。

当時、田町駅東口付近の突築地であったところより着手し、大正3年5月に完成した土地を新しい芝で新芝町と名付けられた。その後、新芝運河越えを埋め立てたところと併せて芝浦三丁目となった。大正3年5月より、芝田町五丁目から九丁目先が埋め立てられ、同9年に出来上がったところを、月見の名所で知られていたので月見町一丁目となった。ここも運河先を埋め立てて、月見町二丁目。さらに、その先が埋め立てられ、月見三丁目が造られた。昭和11年1月1日、町名改正があり、芝浦三丁目は、新芝運河で分別されて、西芝浦一丁目、西芝浦三丁目となる。月見町一丁目は西芝浦二丁目、月見町二丁目は西芝浦四丁目となった。月見三丁目は芝浦三丁目に改名され、市電局車両工場の施設になった。

原筆 下山 正
追筆 大野 家俊